失われゆく自然音に耳を澄ます:変化する環境音が私たちに語りかけるもの
はじめに:音の風景の変化に気づくこと
私たちの周りを取り巻く自然の音は、常に変化しています。しかし、その変化の中には、単なる季節の移ろいや天候の変動だけではなく、人間の活動や気候変動といった地球規模の変化によって、特定の音が静かに、あるいは急速に失われつつあるという現実があります。
かつて賑やかだった鳥の声が遠のき、特定の昆虫の羽音が聞かれなくなり、あるいは特定の地域固有の風の音や水音が変わってしまう。こうした「失われゆく自然音」は、単に聴覚体験の一部が欠けるだけでなく、生態系の変化や環境の健全性を示す重要なサインであり、私たち自身の心にも深く響くテーマです。
この記事では、失われゆく自然音という現象に光を当て、それが持つ多層的な意味、そうした音に耳を澄ますことの心理的な意義、そして未来へその響きを繋ぐ「記録」という行為の価値について探求していきます。
失われゆく自然音とは何か
ここで言う「失われゆく自然音」とは、主に以下のような音を指します。
- 生物起源の音(バイオフォニー): 特定の鳥類、昆虫、両生類、哺乳類などの鳴き声、移動音、活動音。生息地の破壊、環境汚染、気候変動などにより、個体数が減少したり、生息範囲が変化したりすることで、その音が聞かれなくなる、あるいは聞かれにくくなります。
- 地質起源の音(ジオフォニー): 風の音、水音(川のせせらぎ、滝の音、波の音)、地鳴り、雷など。森林伐採による風通しの変化、河川の改修、地下水の減少、海岸線の変化などにより、音の性質や存在自体が変わることがあります。
- 特定の環境固有の音(サウンドスケープの一部): ある場所ならではの複数の自然音が織りなす固有の響き。その場所の生態系や地質、さらには文化や歴史とも結びついています。開発や都市化により、その場所独自の自然音が人工音に埋もれてしまったり、構成要素が変化したりすることで、固有のサウンドスケープが失われます。
これらの音の消失は、その音源である自然が危機に瀕していることを示唆しています。そして、私たち人間は、こうした音の変化を通じて、環境の現状を感覚的に、あるいは感情的に把握することができます。
失われゆく音に耳を澄ます心理的な意義
失われゆく自然音に意識的に耳を澄ませる行為は、いくつかの心理的な効果をもたらします。
- 環境への意識の深化: 消えゆく音を認識することで、私たちは自身の周囲の環境が絶えず変化していること、そしてその変化が不可逆である可能性もあることに気づかされます。これは、環境問題への関心を高め、自然との繋がりを再認識するきっかけとなります。
- 内省とメランコリー: 過去に耳にした特定の自然音が聞かれなくなったとき、私たちは記憶の中のその音を呼び起こし、当時の情景や感情と共に失われたものへのメランコリーを感じることがあります。これは、自身の人生の歩みや、時間の流れ、そして喪失という普遍的なテーマについて内省を深める機会となります。
- 「今」に集中するマインドフルネス: 残されている微細な自然音、あるいはまだ失われていない音に意識を集中させることは、深く「今、ここ」にグラウンドされるマインドフルネスの実践となり得ます。消えゆくものへの儚さを感じながらも、現存する音の豊かさに気づき、感謝の念を持つことにつながります。
- 聴覚の感度向上: 普段意識しないような微かな音に耳を澄ませようとすることで、聴覚全体の感度が高まります。これにより、日常の中に隠された多様な自然音の存在に気づきやすくなり、音を通じた世界の解像度が上がります。
失われゆく音を聴くことは、心地よい癒しとは異なる、やや複雑な感情を伴うかもしれません。しかし、その中には、環境との関わり方、時間や記憶、そして生と死といった根源的な問いに向き合うための静かで深い力が宿っているのです。
未来へ音を繋ぐ:記録という行為の価値
失われゆく自然音を未来へ繋ぐための最も直接的な方法の一つが、「記録」です。フィールドレコーディングという手法を用いて、特定の場所や環境の音を録音し、保存する活動が世界中で行われています。
こうした記録活動は、単に音を保存するだけでなく、以下のような価値を持ちます。
- 科学的研究資料: 生態系の変化や環境の健全性を追跡するための貴重なデータとなります。
- 文化的・歴史的アーカイブ: 特定の時代、特定の場所の「音の記憶」として後世に残されます。失われた、あるいは変化したサウンドスケープを追体験する手がかりとなります。
- 教育ツール: 環境問題や生物多様性の重要性について、感覚的に訴えかける教材として活用できます。
- 芸術表現の源: サウンドアートや音楽制作、映像作品などにおいて、インスピレーションを与え、表現の幅を広げます。
- 個人的な「癒し」の源: 自身が心惹かれた自然音を記録し、後で聴き返すことは、その時の体験を追体験するだけでなく、未来へのメッセージを残す行為として、個人的な充足感や癒しに繋がります。
専門的な機材がなくとも、スマートフォンの録音機能などでも、身近な自然音を記録することは可能です。公園の鳥の声、近所の川のせせらぎ、自宅の庭に吹く風の音など、普段聞き慣れている音も、いつか変化したり失われたりする可能性があります。そうした音に意識を向け、記録として残しておくことは、未来の自分自身や、あるいは誰かにとって、かけがえのない響きとなるかもしれません。
おわりに:耳を澄ますということ
失われゆく自然音に耳を澄ませることは、単なるリスニングを超えた、環境への意識、内省、そして未来への責任感を伴う行為です。それは、私たちの周りの世界が絶えず変化しているという事実に静かに向き合い、その中で自分がどのように存在し、どのように関わっていくのかを問い直す機会を与えてくれます。
日常の中で、少し立ち止まり、今聞こえる自然の音に意識を向けてみてください。それは、あなたにとって、どんな音景でしょうか。その音は、あなたに何を語りかけているでしょうか。そして、もしその音がいつか失われてしまうとしたら、あなたは今、その音とどのように向き合いたいでしょうか。
こうした問いを通じて、私たちは自然音との関係性を深め、より豊かで意識的な癒しの体験へと繋げていくことができるでしょう。